古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【44】

―「神話部分」を読む ― 禊祓と神々の化生 ①

「死」の国から「生」の地に逃げ戻ったイザナギは、
「死」の国で身についた汚れを取り払おうとします。

ここをもちて、伊邪那伎の大神(おほみかみ)、詔りたまひしく。
「吾(あ)は、いな、しこめ、しこめき、穢(きたな)き、國に到りてありけり。
故(かれ)、吾は御身(おほみま)禊(はらひ)為(せ)な」
とのりたまひて、
竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘(たちばな)の小門(おど)の阿波岐(あはき)原に到りまして、
禊(みそ)ぎ祓(はら)ひたまひき。

以上のいきさつから、イザナギの「おおみかみ」は
「私は、嫌な!、穢らわしく、汚い、国に行っていた。
だから、身体を清める禊(みそぎ)をしよう」
と仰せられて、
筑紫の日向の橘の小門のアハキ原においでになって、
身を清められた。

この部分は、お祓いや祝詞で必ず耳にします。
なにしろ史上最初の「清め」の行為ですから、
神道ではとても重要な部分のようです。
ですから宣長は、解釈の仕方に関して多くを語っています。

まず「大神」の読み方です。
ここで初めてイザナギを「大神」という字で表しているのには理由があるのだろう。
あとで「大御神」と表現しているから「大神」と書いているが「オオミカミ」と読むのだ。

と述べています。
その理由に関してですが、ここでは何も述べてはいません。

次に「伊那(いな)」です。
この言葉は(イザナギが)「悪(にく)み」「厭(いと)う」気持ちで発した言葉だから、
「いな」と発して間を置かねばならない。

としています。
つまり、強烈に「忌み嫌う感情」を表す表現だと言っているのです。

次に「志許米(しこめ)」です。
発音は、先に登場している黄泉の国の「志許賣(しこめ)」と同じだが、意味は違う。
黄泉の国の場合の「賣(め)」は、「女(め)」の仮の字であって、
(め)」の字は使用しない。
(め)」は、憂(う)きことや辛(からき)ことに遭遇した状態を「憂き目を見る」「辛き目を見る」などと表現するときの「」と同じである。
志許(しこ)」は「志許賣」と同じく「(しこ)」である。
ここでの意味は「黄泉の国の穢い有様を見た」状態を「醜目(しこめ)」と表現したのだ。

次に「志許米岐(しこめき)」です。
これは単に黄泉の国の有様を伝えているだけだから、「米(め)」の意味も違う。
「米岐(めき)」という言葉で、ひらめく・ひしめくなどと同様に状態を表す言葉である。

つまり、とんでもなく穢く醜い状態を伝える言葉のようです。

次に「ありけり」です。
これは「嘆き」の意味を持った言葉だ。と述べています。
通常は「・・・だった」でいいのですが、ここでは「とんでもなく穢い所へ行ってしまったものだ」との嘆きの感情が込められているとしているのです。

次に「御身」です。
この字は「おほみま」と読むべきだ。と述べています。
一般的には「みみ」とルビを付けて、現代語訳では「身体」としています。
しかし宣長は、日本人の祖であるイザナギの「からだ」であるから通常の読み方ではダメだ!としているのです。

次に「禊」です。
ここでは(イザナギが)自ら行ったので「はらひ」と読む。
同じ字でも、他人にさせる場合は「はらへ」と読む。
と述べています。
一般的には「みそぎ」とルビが付いています。
意味は「清める」であり、普通の人間の場合は「みそぎ」です。
しかしここは、表現のしようがないくらいに「汚く」「醜い」死者の国から帰還した「おほみかみ」と称すべき立場のイザナギが行う「清め」の行為です。
ですから、一般的な「みそぎ」などという読み方では真意が伝わらないのです。

※ここは宣長が殊更に力を入れているように思えます。長くなりますので後半は次に回します。

・・・つづく 

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