古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【2】

― 宣長の古事記伝が正しい訳ではない ―

これまでの古事記の解釈の仕方は、本居宣長の『古事記伝』(=古事記の注釈書)に軸足を置いたものが大半です。
宣長の『古事記伝』そのものを読むことはできませんが、国文学者の倉野憲司氏(明治35年~平成3年)が校訂した『古事記伝1~4』(昭和15年)岩波文庫があります。

『古事記伝1~4』(昭和15年)岩波文庫

倉野氏は解説で、「古事記伝は古事記研究史上に永久不滅の偉大なる足跡を残した」と、宣長の功績を高く評価しています。

ですが同時に、「子細に検討すると、不十分・不徹底の点が少なくない。すなわち宣長の文献学研究においては、自己の学問を皇国学として絶対的なものと考え、その結果古代の客観的解明がやがて主観的な主張となって現れて来ているのである。この論理的矛盾は、彼の偏狭なる国粋主義と神秘主義とに煩わされた結果として生じたものであって、そこに彼の弱点があると考えられる。本文批評においても(中略)不十分な点が多く、同時に首肯しがたい故意の作為を敢えてしている箇所も二・三にとどまらない」とも述べています。
つまり、「天皇を神とする神国的発想に偏りすぎた考え方」に注意が必要だと言っているのです。

戦前の、『神』である『天皇』が率いる『大日本帝国』思想華やかなりし頃に出された本ですから、上の表現でも場合によっては「国賊」として処刑されかねなかったはずです。倉野氏は学者としての誇りから、あのように最も抑えた表現で書かざるを得なかったのでしょう。

戦後70年を経たいま、天皇を神だと考える人はいませんし、天皇を神にすることで利益を得ていた者達もいません。つまり倉野氏が言いたかったことを押さえつける力はなくなったのです。もし倉野氏が生きていれば、宣長の間違いを訂正した古事記解釈に取り組んだのではないでしょうか。
ひょっとしたら倉野氏の弟子が目下取り組み中で、いずれ出版されるかも知れません。

それはそれとして、私は偶然にもかつての古代出雲地方に生まれ住んでいることから、宣長の解釈に縛られない読み方をしてきました。
これからそれを紹介しますが、私は書物を読むときに書いた人の「目的」を考えます。
でもそれには、その人の立場とその人を取り巻く環境、更にはその人が生きた時代背景を理解していなければ正解に近づけません。
ですからあちこち寄り道をすることがありますので、「何でこんなことを書くの」とはお思いにならないようお願いします。

・・・つづく

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