古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【84】

―「神話部分」を読む ― 大国主神 ⑧ 根の堅州國 – 3 –

鳴鏑射入大野之中。令採其矢。
(また なりかぶらを おおぬの 中に 射入れて、その矢を とらしめ給ふ。)

次に(スサノヲは)平原に鏑矢(かぶらや)を放ち、その矢を取ってこいと命じた。

故入其時。即以火廻焼其野。
(かれ そのに 入ります時に、すなはち 火もて そのぬを 焼きめぐらしつ。)

そこで(オホナムヂが)平原に探しに入ると、(スサノヲは)野原の周りに火をつけた。

鳴鏑(なりかぶら)=鳴神夫理矢(なりかみぶりや)で神のミを省き、理矢をラと切る。射れば空を鳴り行く(音が)雷に似ているから付いた名。

於是不知所出之間。鼠來云。
内者富良富良。外者須夫須夫
(ここに いでむ所を 知らざる間に、ネズミ来て 云ひけるは、
 うちは ホラホラ、とは スブスブ。)

(オホナムヂが)脱出困難に陥った時、ネズミが来て
「内はホラホラ、外はスブスブ」と言った。

如此言故。其處者。
落隠入之間。火者焼過。
(かく云ふゆえに、そこを 踏みしかば、
 落ち入り 隠りし 間に、火は 焼け過ぎぬ。)

そう言われたのでそこの地面を強く踏むと、地面が下に崩れた。
その穴に隠れている間に、火炎が通り過ぎた。

爾其鼠咋持其鳴鏑出來而奉也。
(ここに そのネズミ、かの なりかぶらを くひ持ちいで来て 奉りき。)

そこにネズミが鏑矢をくわえて来て(オホナムヂに)渡した。

其矢羽者。其鼠子等皆喫也
(その矢の 羽は、そのネズミの子ども 皆食ひたりき。)

(どのように渡したのかだが)矢の部分を親ネズミが、羽の部分は子ネズミ全員がくわえて差し出した。

所出(いでむところ)=可出之處(いずべきの所)の意味で、不知所出(いでむところを知らざる)は、四方から焼かれて脱出が困難という意味。

様々な方法で苦しめるのは、八十神のように本当に殺そうとしてではなく、この神(オオナムチ)の勇気と知恵を試したのである。
あとの 於心思愛而寝(み心にはしく思ほしてみ寝ましき)にその気持ちが表れている。

富良(ほら)=広い空間
須夫(すぶ)=すぼまる形
内(うち)=ネズミが地中に作った穴の奥
外(と)=その穴の入り口
このように言ったのは、「穴の奥は広く入口は狭くなっているので火が入って来ることはない。火が収まるまで穴の中に身を隠して難を逃れろ」という意味。

ところで、先に「木にクサビを打ち込み、その間に押し込められた」「木の根の間に隠れて逃げた」、ここでは「ネズミの穴に隠れた」と書かれていることから考えると、この神もスクナビコナの神の様に極端に体が小さかったのだろうか?
この目で見たわけではないので、断言することはできない。
(日本書紀に、スクナビコナの神のことを「オオナムチの神が手の平に乗せた」とあるから、スクナビコナ程に小さな神とは思えない。)

宣長は、オオナムチの躰のサイズに随分こだわっています。彼にとってオオナムチ(=大国主)は極めて重要な神ですから、押し出しの良い立派な体格であって欲しかったのかもしれません。

咋持(くひ持ち)=くわえて持つ。

ネズミは人に害を与えるが、家の中にいることは「吉」、外にいることは「凶」とする(また「火災が生じる家からは、予知能力を持ったネズミが逃げ出す」などと云う)のは、この故事による。

皆喫也(皆食ひたりき)=子ネズミ全員が協力して、矢の羽の部分をくわえて運んできた。
皆は全ての子ネズミ。喫(くひ)は咋と同じで、くわえて(持つ)。

現代語版の多くが「子ネズミが羽の部分をかじって食べた」としています。
現代人の我々は「いたずら盛りの子ネズミが食べちゃったのか」と納得しますが、宣長に言わせればとんでもない間違いです。

子ネズミ達が(オオナムチのために)「一致団結して、小さな口で羽の部分をくわえて懸命に運んできた」つまり「オオナムチはネズミからも慕われている神だ」ということです。

・・・つづく

※注:
青字 … 本居宣長『古事記伝』より
赤字 … 古事記おじさんの見解です。

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