月別アーカイブ: 2011年10月

「とりあえずの終わりに」

『古事記の山陰地方を舞台とした記述』と、『山陰地方に残る伝承』とにより、これまでの古事記解釈とは異なる発想もできることを述べてきました。 詳細に調べてゆけばもっと色々なことが出てくると思われますが、今回はこの程度で終わら … 続きを読む →

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「国譲り」とは何だったのか【7】

これにより、各地の自然や部族の祖先が『宗教的行為』の対象となり、後に言う『祖神』になったと考えられます。 天津神とか国津神は、出雲の国譲りで古事記が勝者と敗者に勝手に付けた名前です。 問題は『八百万の神々』です。 十把一 … 続きを読む →

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「国譲り」とは何だったのか【6】

来年訪れる古事記編纂1300年とは、『大和地方に根付いた権力により改ざんされた、その権力出現以前の日本各地の歴史』を『再考せよ』と、八百万の神々から我々に与えられた機会なのではないでしょうか。 私は「八百万の神々」とは、 … 続きを読む →

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「国譲り」とは何だったのか【5】

杵築大社の造営は、「出雲国造家」を拝命した神魂家が、出雲一帯から人と資材を拠出させたと考えるのが自然ではないでしょうか。 659年に造営命令が出され、798年に「出雲国造家」が杵築地方に移ったということは、その間に完成し … 続きを読む →

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「国譲り」とは何だったのか【4】

高天原勢力が傘下に治めたのは、古代出雲勢力の中心的地域(=古代出雲王国)であった、現在の島根県多伎町から鳥取県大山町中山辺りまでの全てであったと思われます。 後年、そこに新しい秩序の象徴として立てられたのが、杵築の大社( … 続きを読む →

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「国譲り」とは何だったのか【3】

交渉決裂のあとは、実力行使あるのみです。 交渉に時間をかけたということは、双方に戦闘準備の時間が十分にあったことを意味します。満を持して武闘派タケミカヅチが送り込まれたということは、高天原側は全面戦争の陣構えで乗り込んだ … 続きを読む →

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「国譲り」とは何だったのか【2】

次にアメノワカヒコが交渉人として派遣されます。 彼も出雲に同化しますが、大国主とタギリ姫の娘であるシタテル姫の夫としてです。しかもそれによって大国主の後継者になろうとの野心があったとされています。 その上、伝令である雉の … 続きを読む →

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「国譲り」とは何だったのか【1】

ここで国譲りの経緯を整理してみます。 まず、交渉により事を進めようとしていた高天原(伊勢勢力)は、交渉人としてアメノホヒを派遣します。ところが彼は出雲に同化してしまい、後年神魂族の祖と位置づけられています。 彼は本国を裏 … 続きを読む →

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葦原中国平定「タギシの浜の迎宴」

多芸志(たぎし)の浜での迎宴とは、敗者が勝者をもてなすものだったと思います。この時、クシヤタマの神が膳夫(かしわで)=料理人となって、と書かれています。 多芸志とは現在の出雲市武志(たけし)町だそうです。 そこに膳夫神社 … 続きを読む →

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