― 天武天皇はなぜ歴史書の編纂を発案したのか? ― ⑥
天武は『列島を領土とする日本国』を意識した最初の天皇と言われています。
しかし、天皇が「国」を意識しただけで「国」ができる訳ではありません。
日本列島(当初は西日本だけ)に住む全ての部族が「国」の一員であることを認め、天皇(=高天原族)が「国」の正統な統率者であることも認めさせる必要があります。
ですから各部族に伝わる伝承(=歴史)を一本化して、高天原族のトップである天皇が「日本国」の統率者であると全部族が認めていることを証明する歴史書(=古事記)を作らなければならなかったのです。
これは日本人に読ませるものですから、日本語で書かれていなければなりません。
同時に他国に見せるための歴史書も必要です。これが日本書紀です。
これは外国人が読むものですから、当時最も多く使われていた言語で書かなければなりません。ですから日本書紀は当時の公用語であった漢文で書かれているのです。
しかしながら国家意識の統一と歴史書作りという壮大な事業ですから、天武の代では完成しません。天武の次の41代持統(じとう)天皇=天武の皇后(686~697年)に引き継がれて完成に向かうのですが、国内向け歴史書である古事記が正式に日の目を見たのは43代元明(げんめい)天皇(在位707~715年)の時です。
日本書紀はその8年後、44代元正(げんしょう)天皇(在位715~724年)の時です。
当時といえども、発展途上国が国際社会にデビューするには約50年の時間が必要だったのです。
天武から48代称徳(しょうとく)天皇(在位764~770年)まで天武系の天皇が続きますが、49代光仁(こうにん)天皇(天智天皇の孫)から、再度天智系の天皇となります。
つまり天武が終止符を打とうとした天皇家内での権力争いは延々と続きます。
この内部抗争が天皇家の権力を失わせて権威だけにしてしまうのですが、権力を失ったことによって江戸時代まで家系が維持されたのです。
・・・つづく