今こそ古事記を読もう【13】

【10】でも述べましたが、天武には二人の息子がいました。一人は正妻との間の子「草壁皇子」、もう一人は正妻の姉との間の子「大津皇子」です。

諸誌によれば「大津皇子」の方が後継者に相応しかったようで、天武もその気だったとしています。ですから皇室を取り巻く大方の見方は、天武を継ぐのは「大津皇子」だったようです。

しかし、正妻は何が何でも自分の子「草壁皇子」をと考えたようです。686年9月、天武天皇が亡くなりますと、正妻は思い切った行動に出ます。

10月、甥である「大津皇子」24歳を、謀反の罪で自決に追い込んだのです。ライバルを倒したのですから、自身の子「草壁皇子」25歳に皇位を継がせたのかと思いますが、そうはしていません。

「大津皇子」事件が尾を引いており、若い「草壁皇子」では収拾不可能と考えたのか、翌687年、正妻自らが持統として41代天皇の座につきます。

多分彼女は、適当な時期に息子に天皇の座を継承させるつもりだったのでしょう。
ところが2年後の689年4月、その息子が28歳の若さで亡くなります。

天智~聖武天皇系図
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・・・つづく

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