古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【5】

― 天武天皇はなぜ歴史書の編纂を発案したのか? ― ②

ここで『乙巳の変』前後の状況を簡単に説明します。

乙巳の変は、35代皇極(こうぎょく)天皇(在位642~645年)のときに起きたのですが、伏線は33代推古(すいこ)天皇(在位592~628年)の後継問題の時点に生じています。
<26代継体(けいたい)天皇(在位507~531年)まで遡るとの見方もありますが、長くなりますので省きます>

推古は29代欽明(きんめい)天皇(在位539~571年)の皇女で日本最初の女帝ですが、彼女の前の30代・31代・32代の天皇はいずれも欽明の皇子でした。
30代敏達(びだつ・在位572~585年)は第二皇子、31代用明(ようめい・在位585~587年)は第四皇子、32代崇峻(すしゅん・在位587~592年)は第12皇子といった具合で、敏達以外の母親は推古も含めて蘇我氏の娘でした。

つまり蘇我氏は、娘が欽明天皇の皇后になったことで、後継天皇達の祖父となったのです。こう見ただけで権力の裏世界を感じますが、それまで男が就いていた天皇の地位に孫娘(=推古)を据えたことで蘇我氏の力の強さが想像できます。
天皇とはいえ推古は女性ですから、政務はこれまた蘇我氏系の女性を母とする厩戸皇子(うまやどのみこ・聖徳太子)が行いました。ところが厩戸皇子は、蘇我氏の権力拡大を抑制したのです。ですから蘇我氏にとって、彼は邪魔な存在となりました。

その彼が622年に亡くなり、推古も後継者を指名しないまま628年に崩御します。
そのときの有力な後継者は、厩戸皇子の子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)と田村皇子の二人でした。山背大兄王は蘇我氏系の血筋で有能だったようですが、厩戸皇子の考え方を引き継いでおり、蘇我勢力の拡大を許しません。
そこで蘇我氏は、血筋としては関係のない田村皇子を力ずくで天皇としました。
これが34代舒明(じょめい)天皇(在位629~641年)です。
血族以外の者まで天皇に据えた蘇我氏の勢力は絶大になり、天皇は飾り物状態になったようです。この舒明の息子達が中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)です。
息子達は、父親が名ばかり天皇としてあしらわれている状況を見ながら育ったのですから、蘇我氏に対して「いつか思い知らせてやる!」との思いを抱きながら成長したのではないでしょうか。

641年、舒明が崩御すると、適任者がいなかったことから、蘇我氏は舒明の皇后(蘇我系ではない)を35代皇極天皇(在位642~645年)とします。
本当は適任者がいたのかも知れないのですが、名ばかり天皇の妻つまり女性を天皇に据えたことで、蘇我氏は更に力を増したようです。
父ばかりか母までも道具としてあしらわれた息子達の心情がどのようなものであったのかは、誰でも想像できると思います。

645年、反・蘇我の中臣鎌足(=鎌子、後に藤原鎌足)と中大兄皇子が中心となって、クーデター(=乙巳の変)が実行されました。
このクーデターにより、皇極は息子の中大兄皇子に譲位しようとします。しかし彼は固辞し、叔父(母皇極の弟)の軽皇子(かるのみこ)を推薦して自分は出家します。
つまり俗世の欲が無いとのパフォーマンスを見せたのです。
結局、軽皇子が36代孝徳天皇(在位645~654年)となり、中大兄皇子を皇太子とします。つまり次の天皇に任命された形として、中大兄皇子が実権を持ったのです。
ところで、生きている天皇がその位を譲るというのは、このときが初めてのことです。
クーデターは、そうしなければ収まらないほどの事件だったのでしょう。

654年に孝徳が崩御すると、後継者に指名されていた中大兄皇子が天皇となるはずでした。しかし彼はまたもや固辞します。クーデターからまだ9年しか経っておらず、血で手を汚した者が天皇となる環境が整っていないとの考えだったのでしょう。
そこで、62歳になっていた元の皇極天皇が、37代斉明(さいめい)天皇(在位655~661年)になります。これを重祚(ちょうそ)といいます。これも天皇史上初めてのことです。
ここでも実権を握っていたのは中大兄皇子でした。

・・・つづく

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