古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【6】

― 天武天皇はなぜ歴史書の編纂を発案したのか? ― ③

この頃大陸では唐、朝鮮半島は百済・高句麗・新羅の時代になっていたのですが、半島三国間では何かと争いが絶えなかったようです。

三国はそれぞれに唐や日本を味方につけようと、外交合戦を繰り広げていました。
皇極から斉明の時代は、三国からの使者が頻繁に訪れていたようです。
日本との関係をより緊密にしようと、新羅や百済はそれなりの身分の者を日本に住まわせています。人質を差し出したということです。

とはいえ朝鮮半島三国に、日本の実力がどの程度に見えていたのかは不明です。
新羅と百済の間に任那(みまな)という地域があったのですが、日本の資料にはその地域を日本が支配していたように書かれています。ところが韓国は、日本と任那の交流は認めていますが、日本の支配地という事実はなかったと主張しています。

その頃の日本は、当時としては先進国でもあり軍事大国でもあった唐に使節団を送り、独立した国として認められようと画策していました。
ですから当時の日本側の資料が、日本の力を過大に表現していただろうと推測できます。
日本と韓国どちらの主張が正しいのか分かりませんが、両国の専門家が共同で研究して互いが納得する見解を出す必要があります。
太平洋戦争終結に関する歴史認識問題が大きく取り上げられていますが、日韓の間には古代歴史認識の問題もあるのです。

斉明の在位5年目(660年)、百済が唐と新羅により滅ぼされます。ところが生き残った者が、日本に百済再興の援助を求めてきます。
斉明(中大兄皇子も)は、日本に滞在していた百済の王子を帰国させて百済救援軍派遣のため筑紫に行きますが、出軍前の661年にそこで崩御します。
次の天皇は中大兄皇子なのですが、彼は即位しないまま兵を出動させ、白村江の戦い(663年)で唐・新羅の連合軍に大敗します。

この白村江の戦いですが、当時の日本の造船・操船能力から考えると、大遠征軍を派遣できたはずはないとの説があります。瀬戸内海を航行できる程度の船に大軍を載せて、潮の流れが速く波の荒い玄界灘・日本海を渡ることはできなかったはずだというものです。
日本側の資料は「大軍を派遣した」と記しています。具体的には軍船170艘とか2万7千人を率いて攻撃したとか1万の援軍などと記されています。
他方、唐や新羅の資料は「日本軍を蹴散らし、大勝利をおさめた」としています。
日本・百済連合の敗戦は間違いないでしょうが、いずれもが極端に誇大な表現をしていることは十分に考えられます。

実際のところは、日本は瀬戸内海や九州の海人族の操船する船に載せることのできる範囲内の派兵だったのではないでしょうか。ですから日本としてはそれなりの軍勢だが、唐から見ればさしたる戦力ではなかったということだったのでしょう。

古代も現代も、遠征側は最低でも攻める相手の10倍の戦備・戦力が必要です。更に出軍前に、敵の武器・戦力・攻撃地の地形などの情報収集をしておかねばなりません。
百済側からそれなりの情報提供は受けていたのでしょうが、当時の日本に海外遠征をする力も情報収集力もなかったと思います。つまり中大兄皇子は、国内クーデターには勝利しましたが、国際紛争に関わる力を持ってはいなかったのでしょう。

・・・つづく

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