古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【66】

―「神話部分」を読む ― 天照大神と須佐之男命 ⑪ 天の石屋戸 – 6 –

於是天照大御神以爲怪。
(ここにアマテラス大御神、あやしとおもほして。)

そこでアマテラスは変だなと思って、

細開天石屋戸而。内告者。
(あめのいはやどを ほそめにひらきて、うちより のりたまへるは。)

アメノイワヤドを細目に開いて、中から仰せられるには、

因吾隠坐而以爲天原自闇。
(あが こもりますによりて あまのはらおのづから くらく。)

「私がここに籠っているので、天上界は自然に暗闇となり、

亦葦原中国皆闇矣。
(あしはらのなかつくにも みなくらけむと おもふを。)

また葦原の中つ国も全て暗黒であろうと思うのに、

何由以天宇受賣者爲楽。
(などて あめのうづめは あそびし。)

なぜアメノウヅメは踊り、

亦八百萬神諸咲。
(また八百万の神 もろもろわらふぞ、とのりたまひき。)

また八百万の神たちは皆笑っているのか。」

爾天宇受賣白言汝命而貴神坐故歓喜咲
(すなはち あめのうづめ、ながみことにまさりて たふとき神 いますがゆへに、えらぎあそぶ とまをしき)

そこで、あめのうづめは、「貴女より貴い神がおいでなので、喜び笑い踊っているのです」と申し上げた。
歓喜咲=咲(えみ)栄(さかえ)楽(たのしむ)を意味し、真実(まことに)おもしろく楽しみ遊ぶ情況を表している。

如比言之間。
(かく まをすあひだに。)

このように話している間に、

天児屋命布刀玉命指出其鏡。
(あめのこやねのみこと、ふとたまのみこと、かの鏡をさしいで、)

アメノコヤネとフトタマが、例の鏡(ヤタ鏡)を差し出して、

示奉天照大御神之時。
(アマテラス大御神に みせまつるときに。)

アマテラスに見せると、

この鏡を見せたことでアマテラスの光が映って世の中が明るくなったのだから、
「汝命に勝りて貴神」はこの「鏡」を意味している。

宣長は「ヤタ鏡」=「アマテラス」と解釈しているようです。
神社に鏡があるのも、伊勢神宮の御神体が鏡なのも、ここが根拠のようです。

天照大御神而。
(アマテラス大御神、いよいよあやしと おもほして。)

アマテラスは、「なんだか変だ」と感じて、

自戸出而臨坐之時。
やや とよりいで、のぞみますときに。)
戸口から少し身を乗り出して(鏡を)見ようとしたときに、

臨=能曾久(のぞく)で、状態をうかがい見る意味。

其所隠立之天手力男神取其御手引出。
(かの かくりたてる あめのたぢからをのかみ、そのみてをとりて、ひきいだしまつりき。)

戸の横に隠れていたアメノタヂカラが、(アマテラスの)手を取って引き出した。

即布刀玉命以尻久米縄控度其御後方。
(すなはち ふとたまのみこと しりくめなはを、そのみしりへに、ひきわたして。)

すかさずフトタマが、しめ縄で(アマテラスの)背後に結界を作って、
尻久米縄=志米縄(しめなわ)。
控度(ひきわたし)=隔てを作ること。

白言従此以内不得還入
(ここよりうちに な、かへり、いりましそ と、まをしき。)

「(しめ縄の)中へ戻ることはできません。」と言った。

故天照大御神出坐之時。
(かれ アマテラス大御神 いでませるときに、)

こうしてアマテラスが姿を現すと、

高天原及葦原中国自得照明。
(たかまのはらも、あしはらのなかつくにも、おのづから てり あかりき。)

タカマノハラにも、アシハラノナカツクニにも、自然に光が降り注いだ。

・・・つづく

※注:
青字 … 本居宣長『古事記伝』より
赤字 … 古事記おじさんの見解です。

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