古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【7】

― 天武天皇はなぜ歴史書の編纂を発案したのか? ― ④

国際紛争で大敗した中大兄皇子は、唐が攻め寄せるのではないかとビビりまくります。敗戦責任を口実にクーデターが生じる可能性もありますから、都を海から遠い大津に遷し(667年)、翌年の668年1月に38代天智天皇(在位、一般的には661~671年)として即位します。
<斉明期の都は飛鳥=奈良にありました。今の奈良は海から遠いのですが、当時は生駒山系の近くに海岸線があり海は近かったのです>

天智は体制固めが必要と考え、即位後すぐに弟の大海人皇子(後の天武天皇)に自分の娘二人を嫁がせて(正妻としてウノノヒメミコ=後の持統天皇、他にオオタノヒメミコ=ウノノヒメミコの姉)、後継者に指名します。

ところが間もなく息子の大友皇子を太政大臣に据え、腹心で彼の周りを固め始めます。
この時点までは天智と大海人皇子の信頼関係は良かったのですが、この人事により互いに疑心が生じたようです。
それに拍車をかけたのが二人の取り巻き連中と、百済・新羅・唐の海外勢です。
白村江の戦い後、各国から使節が来るようになっていましたが、目的は日本の情報収集と朝廷内の攪乱だったようです。

このままでは不利と考えた大海人皇子は、後継者は大友皇子にすべきと進言して身を引きます。671年、天智天皇は病床の身となり、弟である大海人皇子に後を継ぐように言います。しかしそれを罠と見抜いていた大海人皇子は固辞し、僧侶となって吉野へ去ります。
つまり危険な地域から逃げ去ったのです。

その年の暮れに天智天皇は崩御し、大友皇子が39代弘文(こうぶん)天皇(在位671~672年)となります。それを知った大海人皇子は還俗(僧侶から普通人に戻る)し、挙兵して甥である大友皇子一派を撃破します。これが壬申(じんしん)の乱(672年)です。

敗れた大友皇子は自害し、大海人皇子は40代天武天皇(在位673~686年)として即位します。天武は、皇族を要職につけ他の氏族を臣下として自らに権力を集中させ、権威と権力を併せ持つ天皇を目指します。つまり、絶対的権力を持つ王になろうとした訳です。

そのためには、彼が支配する日本という「国」を確定させなければなりません。
国の確定とは、国内統一がなされ、周辺諸国に認められて初めて成立します。
周辺諸国に認めてもらうためには条件があります。
当時のそれは、国土があり国民がいて、そこが正統な王により統率されていることです。
問題は「正統な王」です。
日本の王族(=天武一族)が正統であることを周辺国に認めてもらうためには、その証となる歴史書(=正史)が必要でした。
ですから天武は、歴史書編纂を命じたのです。

・・・つづく

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