古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【42】

―「神話部分」を読む ― 黄泉の国 ⑦

最後(いやはて)にその妹伊邪那美の命、身自(みづか)ら追ひ来ましき。

最後にイザナミ自身が追いかけてきた。

すなはち千引(ちびき)の石(いは)をその黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、
その石(いは)を中に置き、

そこで(イザナギは)巨岩を黄泉比良坂に引っ張ってきて、
(イザナミ・イザナギ)の間に置いて、

各(あい)對(むか)ひ立(たた)して、事戸(ことど)を度(わた)す時に、
伊邪那美の命の言(まをし)たまはく、

(二神が)向き合って、夫婦離縁の言葉を交わす時、
イザナミが言った。

※「渡事戸」の読み方は許登度袁和多須(ことどをわたす)で、意味はよく分からないようです。
宣長が検討した結果「夫婦(めを)の交(むつひ)を絶(た)つ證(しるし)の事と思はるるなり」
としていますから、「男女が離別する時の言葉」のようです。
江戸時代の「三行半」のようなものなのでしょうか。

「愛(うつく)しき我(あ)が汝夫(なせ)の命、かく爲(し)たまはば、
汝(みまし)の国の人草(ひとくさ)、一日(ひとひ)に千頭(ちかしら)絞(くび)り殺さな」とまをしたまひき。

(イザナミが)「いとしい貴男がこんな事をなさるなら、
貴男の国の人々を一日に千人絞め殺します」と言った。

ここに伊邪那岐の命の詔(の)りたまはく、
「愛(うつく)しき我(あ)が汝妹(なにも)の命、汝(みまし)然(しか)爲(し)たまはば、
吾(あれ)一日(ひとひ)に千五百(ちいほ)産屋(うぶや)立ててな」とのりたまひき。

するとイザナギが、
「いとしい妻よ、お前がそうするなら、
俺は一日に千五百人生ませる」と言った。

ここをもて、一日(ひとひ)に必ず千人(ちひと)死に、
一日(ひとひ)に必ず千五百人(ちいほひと)生まるる。

これにより、一日に必ず千人の人が死に、
千五百人が生まれるのである。

故(かれ)、その伊邪那美の命を、黄泉津(よもつ)大神と謂(まを)す。
またかの追ひしきしによりて、道敷(ちしきの)大神と號(まを)すともいへり。

このようなことから、イザナミをヨモツ大神と言う。
また(イザナギに)追いついたので、チシキの大神とも名付けられた。

またその黄泉(よみ)の坂に塞(さや)れりし石(いは)は、
道反之(ちがへしの)大神と號(まを)し、塞(さや)ります黄泉戸(よみどの)大神とも謂(まを)す。

黄泉の坂を塞いだ巨岩は、
チガヘシの大神と名付け、黄泉の国の出入り口を塞いでいるヨミドの大神とも言う。

故、その謂(い)はゆる黄泉比良坂は、今、出雲国の伊賦夜(いふや)坂と謂ふ。

そしてヨモツヒラサカは、今の出雲の国のイフヤサカのことである。

現在、松江市東出雲町の国道9号線から車で数分の所に 黄泉比良坂 があります。

黄泉比良坂

その場所が、古事記に書かれている場所かどうかは分かりません。
ところがそこからやはり車で数分北側に、
揖夜(いや)神社 があります。
実はこの神社の古名が、伊布夜社(いふやのやしろ)です。

揖夜神社

地形的には、黄泉比良坂が小山の中にあり、西北へ下った所に揖夜神社がある状態です。
古事記の時代は揖夜神社のすぐ近くまで海でしたから、その一帯は山から海へ下る坂状の地形だったのです。
問題は、神社のある所が古事記に記された「黄泉比良坂」なのか、現在の地名と同じ場所がそうなのかということです。

そこで揖夜神社の宮司さんに直接聞いてみました。
答えは、「神社がある所は社地で、あなたの探している坂は黄泉比良坂の地です」とのことでした。
これは私の考えですが、古事記が書かれた頃は、山から海への一帯を「伊賦夜坂」と称していたのではないでしょうか。

・・・つづく

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