「国譲り」とは何だったのか【4】

高天原勢力が傘下に治めたのは、古代出雲勢力の中心的地域(=古代出雲王国)であった、現在の島根県多伎町から鳥取県大山町中山辺りまでの全てであったと思われます。

後年、そこに新しい秩序の象徴として立てられたのが、杵築の大社(おおやしろ)つまり現在の出雲大社です。

659年に、その造営を命じられたのが「出雲国造家」で、798年に「出雲国造」が杵築大社に移住していることは述べましたが、命じられた時の「出雲国造家」は風土記時代に意宇郷(おうのこおり)と称される地域の神魂家だったはずです。

つまり島根半島側の勢力ではなく、松江地域の勢力です。

出雲大社の社伝では、一回目の造営が垂仁天皇時で、二回目が斉明天皇時となっているそうです。しかし垂仁天皇の在位は、紀元前29年~紀元後70年の99年間となっており、その存在も疑問視されている天皇ですから、一回目の造営は眉唾です。

二回目の斉明天皇時というのが659年ですから(日本書紀に記述)これは間違いないでしょう。

この時の大社がどのような物であったかは分かりませんが、問題はその造営費用の出所です。高天原勢力(後の中央権力)が命じたのですが、費用を出したとは思えません。

何故なら、この659年というのは、阿部比羅夫が蝦夷を平定した年で、その前年には有馬皇子の謀反があり、中央権力に人的・資金的余裕があったとは思えないからです。

では誰が資金を出したのか?

…つづく

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