古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【68】

―「神話部分」を読む ― 天照大神と須佐之男命 ⑬ 五穀の起源 – 1 –

宣長は、このエピソードがここで語られているのは文脈的に変だと感じていたようです。
「(このエピソードが)スサノヲ追放後の事なら、この部分の前に何か別の文章がなければ『又』では始めている点が納得できない。もし当初からこのままであったなら、『又』の字は『故』であるべきだ」と述べています。

又食物乞大氣津比賣神。
(また、をしものを おほげつひめのかみに こひたまひき。)

(スサノヲは)食物をオオゲツヒメに求めた。

オオゲツヒメが食物の神だから(スサノヲは)求めたのである。
日本書紀に
「葦原中国(あしはらのなかつくに)に保食(うけもちの)神がいる」と書かれているが、大氣津比賣神と保食神は同一神である。

考えてみると、月夜見(ツクヨミ)とスサノヲは同一神ではないかと思える点が多い。
月夜見の夜見は黄泉で、スサノヲの国の名前である。根の国が黄泉の国だということは既に述べた。昼・夜で言えば、昼は現世で夜は黄泉である。

また古事記に、スサノヲに「海原を治(しら)せ」と事依(ことよさ)したまへるとあり、日本書紀にはツクヨミに「滄海原潮之八百重を治(しら)せよ」とある点を考えるべきだ。

また、ここのスサノヲによるオオゲツヒメ殺害が、日本書紀ではツクヨミによるものとなっており、「アマテラスが『お前は悪神だ』と怒って、昼夜を分けた」とあるのもスサノヲのように思えるではないか。
しかしながら何を読んでも(スサノヲとツクヨミを)同一神としたものは無く、別神としているのは、同一神の様でありながら別神とする深い理由があるようだから、ここで軽々に論じるべきではない。

宣長はここで意味深なことを述べています。
宣長は、三貴子が現れた場面で「目は穢れが大きくないが、鼻は大きい」と述べ、
目から現れたアマテラスとツクヨミは『善』、鼻から現れたスサノヲは『悪』と定義しています。
スサノヲをとツクヨミが同一神なら、「目と鼻の定義を崩す」か「スサノヲは『善・悪』両性を持つ」とするかの説明が必要になります。
でもそれには触れていません。

・・・つづく

※注:
青字 … 本居宣長『古事記伝』より
赤字 … 古事記おじさんの見解です。

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