古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【23】

―「神話部分」を読む ― 伊邪那伎命と伊邪那美命 ③

イザナギとイザナミの国生みは、「夫婦である男女双方の確固たる意志によるものだった」と強調しておく必要があったであろうことを前回述べました。

更に「神聖な行為」とするために「儀式」をさせています。
『ここに伊邪那伎の命詔(の)りたまひしく、
「然(しか)らば吾(あれ)と汝(いまし)とこの天(あめ)の御柱(みはしら)を行き廻(めぐ)り逢(あ)ひて、みとのまぐはひせむ」とのりたまひき。
かく期(ちぎ)りて、すなはち
「汝(いまし)は右より廻り逢へ、我(あれ)は左より廻り逢はむ」と詔りたまひ、
約(ちぎ)りをへて廻る時、伊邪那美の命、先に「あなにやし、えをとこを」と言ひ、
後(のち)に伊邪那伎の命、「あなにやし、えをとめを」と言ひ、各(おのおの)言ひをえし後、その妹に告げたまひしく
「女人(おみな)先に言へるは良からず」とつげたまひき。
然(しか)れどもくみどに興(おこ)して生める子は、水蛭子(ひるこ)。
この子は葦船(あしぶね))に入れて流し去(う)てき。
次に淡島(あはしま)を生みき。こも亦、子の例(たぐひ)には入れざりき。』

若い男女ですから理屈抜きで求め合えばいいようなものですが、国土を生むのですから特別の性行為でなければなりません。

そこでイザナギは「柱を真ん中にして互いに反対に回り、めぐり合ってしよう」
「お前は右から回れ、俺は左から回るよ」と互いに動き、出会った所でイザナミが「貴方ってなんて素敵なのでしょう」と口走ります。
これを受けたイザナギもつい「お前はなんて魅力的な女なんだろう」と返します。
そのあとでイザナギは「女が先に声をかけるのは良くない」と言うのですが、ことに及んでしまいます。

案の定そのようにしてできた子供は未熟状態で生まれたようです。水蛭子とは川にいる蛭のようにふにゃふにゃで正常な状態の赤ん坊ではなかったということでしょう。そこでその子は葦で作った船に入れて海に流してしまいます。
もうひとり生まれますが、その子も正常な赤ん坊ではなくこの二人はイザナギ・イザナミの子供の数には入れないことになります。

この部分は、一人前の仕事ができても「体が未熟な若い男女間の子供は未熟児が多かった」という当時の実情の反映だったのではないでしょうか。

・・・つづく

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古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【23】 への2件のフィードバック

  1. しろつばき のコメント:

    古事記おじさん、こんばんは。
    先日は、色々とお教え頂きまして、有難うございました。
    「古事記外伝 イズモクロニクル」、興味が湧いてきました。

    さて、伊邪那岐命と伊邪那美命の結婚の儀式ですが、この部分は何やら神秘的
    かつ不思議で、まさに神話ならではの雰囲気が漂っているような感じがしました。
    このシリーズを拝読してハッとさせられ、また改めて読み直してみたいと思います。
    海に流された水蛭子と淡島は何処へ…少し想像をかき立てられました。

    • 古事記おじさん のコメント:

      しろつばきさん、ありがとうございます。
      返信が大変遅くなり申し訳ありません。

      当時は一夫一婦制ではありませんでしたが、身分の高い階層では
      血筋を残すための性行為と欲求を満たすだけの性行為を区別していたように思えます。
      イザナギ・イザナミの行為は「国土を創る」という神聖な行為ですから、
      きちんとした手順に従ったということを明記したのでしょうが、
      その手順も創作ですから、指導的立場の神ですら太占に依ったとも記したのでしょう。
      これにより、以後はその手順が儀式として定着したのではないでしょうか。

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