もしも古事記の神々が人間だったら・・・【34】

神武東遷 ≪その二≫

私は「国譲り」を、出雲勢力(国つ神)に高天原族(天つ神)が挑んだ「天下分け目の戦い」だったと考えています。
結果は、「高天原族の犠牲も極めて大きかったが、出雲勢力が不利な状態で終戦交渉に入った」といったところでしょう。
つまり高天原族は、出雲勢力圏を完全支配することはできなかったのです。

「国譲り」という表現は、北朝鮮との拉致問題や米国とのTPPのような、時間をかけた「ハードな交渉」の積み重ねが背景にあったことを感じさせます。
ですから「天孫降臨」で舞台をいきなり九州に移し、そのような状態での撤退行動であったことを誤魔化したのです。

一旦引き上げた高天原族ですが、神武の代になって準備が整い、先の高千穂宮(たかちほのみや)での決意表明をしたのではないでしょうか。
ここからの神武の行動を、古事記は『神武東遷』言い換えれば「都を造るための適地探し」としています。
でもそれは後の時代の者による歴史的表現であって、実際は九州から東側地域の出雲勢力に属していた部族を征服するための軍事侵攻だったと考えるのが妥当ではないでしょうか。つまり出雲勢力圏の完全掌握の始まりです。

神武は、出発に先立って「成功祈願」をしています。
その場所が宮崎県児湯郡都農町(こゆぐん つのちょう)にある『都農(つの)神社』です。
「天つ神」の子孫である神武が祈願したのですから、そこには「天つ神」の祖神が祀られていて当然です。
ところがそこは、オオクニヌシやスサノヲなど出雲の神だけを祀る神社なのです。
なんと「天つ神」のトップが、倒した「国つ神」に祈願しているのです。
私はこの神武の行為を、スサノヲを信奉する部族に対しての「自分はスサノヲの後継者=出雲勢力圏の継承者である」ことのアピール狙いだったと受け止めています。

都農を出た神武は大分県の宇佐に向かい、そこに一年滞在しています。
九州を離れる前に地元の態勢を万全にしておこうと、一旦北部に滞在したのでしょう。
その場所が海岸沿いの宇佐ですが、九州北部と日向の位置関係を考えると地政学的にも格好の場所です。
一年というのも妥当な時間です。
当時の宇佐地方は、海岸線がずっと内陸側に位置しており、海が今の宇佐神宮の近くまで入り込んでいました。
宇佐神宮の地は海近くの高台ですから、そこに司令部を置いたのかも知れません。
隣の中津市大貞の薦(こも)神社には「宇佐神社の元である」とのお話が伝えられているそうですから、宇佐神社は神武東遷の記述によりずっと後に創られたもののようです。

・・・つづく

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