もしも古事記の神々が人間だったら・・・【24】

コトシロヌシ ≪上≫

コトシロヌシは、葦原中国(あしはらのなかつくに)平定の場面で、アメノホヒ・アメノワカヒコのエピソードの次に、高天原族(=天つ神)への服従者として紹介されています。
今風に書けば、高天原族軍の最高司令官として派遣されたタケミカヅチが、出雲の王である大国主に「降参しろ」と迫ったとき、大国主は「私では答えられない。息子のコトシロヌシが答えるでしょう」と言います。

降伏するかどうかという大決断を、父親の大国主ではなくコトシロヌシが下したのです。
ごく自然に「どうして息子が決めたの?」との疑問が湧きます。

これに関して倉野憲司氏の『コトシロヌシは、元来出雲の神ではなく、託宣(=神託:神のお告げ、神の意志を伝える役目)の神として大和に祭られ、宮廷内にも祭られていた。大国主が答えず、コトシロヌシが天つ神の使者に返答するのは、古代の君主の呪的宗教的支配力を代表する神がコトシロヌシであったからである』との説が一般的解釈のようです。
この解釈には「ことしろ」=「言(こと)知る」で、託宣を司る神 だという前提があります。

この解釈でまず疑問に思うのは「大和の託宣専門家が、出雲の命運を決める場面にいる」点です。

次に、コトシロヌシが大和王権にとって宮廷に祭るほど重要な神であるなら、その氏素性も明確だろうと思うのですが、母親はカムヤタテ姫・父親は大国主と説明されているだけなのです。
男尊女卑の時代であったとしても、カムヤタテ姫の情報が少な過ぎます。

更に、大和王権の成立は出雲征服後です。
これは古事記中巻の最初に紹介されている神武の東征部分で明らかです。

神武は「どこで国を治めようか。やはり東の方に都の地を求めて行こう」と、日向(宮崎~鹿児島県地方)を出発して豊国(豊前=大分県)の宇佐(宇佐市)に行き、九州北部に一年滞在しています。
ここは東ではなく北になりますから、東へ行く準備だったようです。

準備が整い、そこから東北方面の阿岐国(安芸=広島県)に行き、七年滞在しています。
都にふさわしいかを検討したのでしょうが、ボツということだったのでしょう。
都を造営・維持するには膨大な食糧が必要ですが、広大な農地の確保ができなかったからだと思います。

次に、更に東の吉備(岡山県)に移り八年滞在しますが、ここもやはり適地ではなかったようです。

こで更に東の登美(奈良県)に行きます。
ここはナガスネビコの一族が支配していました。広大な奈良盆地があり、都にふさわしい地域だったようです。
高天原族はナガスネビコと戦い、勝ち取ります。
このような流れで、奈良=大和地方に都が置かれ、大和王権となる訳です。
これは神武の時代以後のことですから、国譲り=コトシロヌシの時代よりずっと後です。

・・・つづく

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