2012年12月25日:特別編

今年最後の記事となりましたが、今回は特別編とさせて頂きます。

実は文藝春秋の「創刊90周年記念」号に、立花隆氏の「平成の国津神」なる一文が掲載されました。立花氏は文藝春秋の冒頭に「日本再生」シリーズを執筆中ですが、今回がNo21です。

この原稿の創刊90周年記念号への掲載を、私は立花氏の意志と受け止めました。

ここに全文を掲載することはできませんので、以下に抜粋します。

“ 東京国立博物館で「古事記1300年・出雲大社大遷宮特別展『出雲―聖地の至宝―』」なる大展覧会をやっていると聞いて行ってみた。(中略)みんな何を見にきたのかというと、二〇〇〇年に出雲大社拝殿のまん前から掘り出された「宇豆柱」と呼ばれる巨大な(直径三メートル)柱の根っこの部分。展示室中央のガラスケースの中にドーンと巨岩のごとく三つころがっている。「スゴイ」と思った。

 いまの出雲大社は、高さ二十四メートル(八丈)。これでも十分高いと思うが、昔はこれが四十八メートル(十六丈)あったという伝承がある。かつてその話を信ずる人はほとんどいなかった。それが、この発見で、一挙にそれを信ずる人のほうが多くなった。
(中略)
 また、会場には、四十八メートル時代の出雲大社がどのような形状だったかを示す十分の一縮尺の復元模型が展示されている。これで、現実に建っていた頃の様子が実によくわかる。(中略)四十八メートル時代、平安中期から鎌倉初期の二百年間に七度ほど転倒したことがあるという。
(中略)
「倒れても倒れても、古人は壮大な御神殿を造営し続け」たが、それは出雲大社が「よみがえり」を信じ、それを常に最も大切にしてきた教団だからという。
(中略)
 ここ数年来、出雲では、目をむくような大発見の連続だった。一九八四年には荒神谷遺跡から三百五十八本もの銅剣が一挙に発見されたし、一九九六年には加茂岩倉遺跡から三十九個の銅鐸が一挙に発見された。いずれも日本の古代史を書きかえる大発見といわれた。今回の展覧会では、この銅剣も、銅鐸も同時に大量に展示されている。
(中略)
今回同一会場で同時に全てを見て、あらためて、日本の古代史はこれで完全に書き換えられたと思った。

 何が書き換わったのかといえば、日本国の成立史である。日本国の成立史において出雲の果たした役割である。(中略)古事記の世界(出雲神話が三分の一を占めている)を歴史にどう取りこむかという話だ。

 かつて日本の歴史学の世界では、神話に言及することを一切禁忌としてきた。学会を支配してきたいわゆる進歩派の歴史家たちが、神話の一切排除を主張してきたからだ。
考古学の成果を中心に歴史を描けという。そういう流れに対して、坂本太郎はあるときこう異をとなえた。

「しかし考古学だけで歴史は成り立たない。しいていえば歴史の骸骨はできるかもしれない。が、血肉の通った歴史は生まれてこない。神話・伝説を毛ぎらいした歴史は、まさに角をためて牛を殺した愚者のたとえにぴったりだ」

 角をためて牛を殺してしまった歴史家の頭からは、荒神谷の銅剣を見ても、加茂岩倉の銅鐸を見ても、それが何なのかを伝える大きなストーリーが生まれてこない。大量の論文が書かれたが、それらは、銅剣や銅鐸の様式がどうのこうのという面白くもおかしくもない論文が大半で、まことに歴史の骸骨そのもの。(以下省略)”

立花氏のこれまでの言動に対する評価は兎も角として、言論界でそれなりの発信力を持つ同氏の発言がどのような波紋を広げるのかが楽しみです。

ではみなさん、よいお年を。

2013年につづく…

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