古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【21】

―「神話部分」を読む ― 伊邪那伎命と伊邪那美命 ①

「自己責任」ゆえに間違いがないように「過去の事例」や「周辺の人間関係」を重要視する「古事記」民族の発想と、「神の意志」であって「自己責任」ではないゆえに「過去の事例」や「人間関係」にこだわる必要の無い「聖書」民族の発想の違いをご理解頂けたと思いますので、「古事記」に戻ります。

架空の地「高天の原」のオールキャストが紹介されましたので、本来の目的に向けての物語の展開が始まります。

書き出しは
『ここに天(あま)つ神諸(もろもろ)の命(みこと)もちて、伊邪那伎(いざなき)の命、伊邪那美(いざなみ)の命、二柱(ふたはしら)の神に、「この漂(ただよ)へる国を修(をさ)め理(つく)り固(かた)め成(な)せ」と詔(の)りて・・』
と始まります。

現代語にすれば
『天の神達は、イザナギ・イザナミの二神に、「このふわふわ状態をきちんと固め、国土にせよ」と命じて・・』
といった感じでしょうか。

「天つ神」というのは「高天の原」に現れた神様全員の総称ですが、「諸の命もちて」としているところがまさに「古事記」民族の発想です。
「ある特定の神」ではなく「複数の神達の総意」としているのです。
よく言えば「民主的」、悪く言えば「責任の所在を明確にしない」ということになります。
とは言え、神が「高天の原」に現れた順番には序列がありましたから、名前は明記されていないが「上位陣達かな」と思わせるところがポイントです。
つまり日本列島の国づくりは、そこに住む全部族の祖神達の総意であり、実行を命じられたのが新参のイザナギ・イザナミペアだったとしているのです。

二人は「天(あめ)の沼矛(ぬぼこ)」という道具を与えられ、それで海水をかき混ぜると先端から塩の固まりが滴り落ちました。
何度か繰り返すうちに、塩の固まりが重なって島を形成します。それがオノゴロ島です。島の場所に関しては諸説ありますが、古事記に地名は記されていませんから、全てあとづけの作り話ということになります。

二人は頃合いを見てその島に降り立ち、柱を立てて家をつくります。
この場面は
『天(あめ)の御柱(みはしら)を見立て、八尋殿(やひろどの)を見立てたまひき』
と書かれています。

この部分のこれまでの解釈は「立派な柱を立て、幅が両手を広げた長さの八倍もあるような広い家を建てた」です。
また「矛」にも「柱」にも「天」がついているのは天上界とのつながりを意味しており、柱は男性器の象徴だとしています。

私は、そのような「妙に意味付けした」解釈をする必要はないと考えています。
「古事記」の編者達は、自分達の経験を下地にして想像を巡らせたはずです。
国土をつくるということは、「無」から「有」を生じさせるということです。
当時の人達がそれを経験するとしたら、海中の火山がマグマを噴き出して島ができた状態を見るとか、海面が下がってそれまで見えていなかった島が出現するとか、川から運ばれた土砂で河口付近に砂州が現れるといったことだったのではないでしょうか。
いずれにせよ、水中から岩や砂州が現れる以外には無かったと思われます。

また誰も住んでいない地に新たな生活の場を作る場合、最初にすることは安全に寝ることのできる場所の確保、つまり「ねぐら=小屋」をつくることだったはずです。
古事記が書かれた時代には仏教が伝えられており、寺院建築も行われていました。
ですから古事記の編者に選ばれるような立場の者は、柱を斜めに組み合わせる竪穴式住居ではなく、直立の柱で屋根を支える建物に親しんでいた可能性が高いと考えられます。
当然、建築がどのように進められるかも見ていたはずです。
寺院にせよ神社にせよ、まず中心になる柱を建てますから、イザナギ・イザナミの家づくりを柱を立てることから始めさせたのは当然です。

・・・つづく

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