古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【15】

―「神話部分」を読む ― ②

そのあと「次に成れる神の名は」として、二人の独神(ひとりがみ)と五組の男女対の神が現れたと書かれています。そして彼らをひとまとめにして『神世(かみよ)七代(ななよ)と言う』と特記しています。
二人の独神は「姿がなかった」と書かれていますが、五組の対の神に関してはその記述はありません。書かれていないから「姿があったのかな」とも思えますが、『神世七代』として特別扱いしていますから「姿がなかった」と受け止めるべきなのでしょう。

文脈から考えますと、ここまでに紹介された七人と五組の神が自然界の始まり頃に『高天の原』に現れた神となります。
つまり天地創造期の祖神達ですが、そこには序列があります。
最上位が最初の三人、二番目の位が次の二人、そして三番目が最後の二人と五組といった具合です。
三番目グループの最終組として現れたのが、イザナギとイザナミペアです。

以前にも述べましたが、文章はなにかしらの【目的】により書かれます。
手紙でも作文でも「出だし」に苦労しますが、それは【目的】を伝えるのにふさわしい書き方にしなければならないと考えるからです。

古事記は、各地・各部族の伝承や過去に書かれたものを統一する【目的】により書かれたものですから、その「書き始め」は極めて重要だったはずです。
その古事記編纂の【目的】は「高天原族が日本の正統な統率部族であることの証明」です。
ですから「出だし」部分は、古事記全体でも最も重要なポイントと考えなければなりません。
私はこの最重要ポイントを「天地初めて撥けし時、高天の原に成れる神」部分だと受け止めています。

天地始まりの時に、他でもない『高天の原』に、神が出現したと宣言しているのです。
これにより『高天の原』を神聖な場所と確定させている訳です。
そしてそこに、「三人と二人計五人の別格神と二人と五組の特別神が現れた」と確定しているのです。

古事記が書かれた時代にも私のような俗人がいたでしょうから、「では神々が現れた高天の原とはいったいどこにあったのか?」と言い出した者もいた可能性はあります。
神々に姿形があれば、彼らが現れた高天の原も具体的でなければなりません。
しかし姿形がなければ宙に浮いていても海の中でも構いませんから、『場所』を具体的に固定しないで「目に見えない所なのだ」との説明が可能になります。
「身を隠したまひき」というのは、どのようにでも解釈できるオールマイティー表現で、古事記編者の叡智と感心するしかありません。

ここまでが日本民族の『神』がいかなるものかの説明です。
「天地ができた時に神が現れた」つまり「天地を創ったのは神ではない」という『神道』発想のスタートです。
このあと序列最下位のイザナギ・イザナミペアが、序列上位の神達から国土形成を命じられます。

でもそこに入る前にちょっと横道にそれ、キリスト教では天地創造をどのように考えているかをご紹介します。

カテゴリー: 古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』, 連載を読む タグ: , , , パーマリンク

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。