コトシロヌシ≪下≫
一般的には、『青柴垣に打ち成して隠りき』の場面でコトシロヌシは死んだと解釈されています。
ところが、鳥取県中部の倉吉市福庭にある波波伎神社に、コトシロヌシのその後に関する伝承がありました。
「コトシロヌシは早船に乗り換えて南東対岸の福庭に着き、その山の中で隠遁生活を送り亡くなった」というものです。
しかも、高天原の高官がコトシロヌシの様子を見るために度々訪れていたとも伝えられているのです。
コトシロヌシは、負けた出雲族の指導者の一人ですが、高天原の高官が出向かなければならない程の身分だったのです。
隠岐の島に流された後醍醐天皇と同じような身分と考えれば分かり易いと思います。
後醍醐天皇と同じように、コトシロヌシは波波伎神社奥の山中で「地の神の力が蘇る」のを待ちながら『出雲再興』を考えていたのではないでしょうか。
もちろん態度には表さなかったはずですから、高天原族の高官は、大人しく暮らしていると報告したはずです。
とはいえ、コトシロヌシの秘めたる怨念の『気』は感じたでしょうから、「クーデターの可能性はゼロではない」程度のことは付け加えたと思われます。
実は、福庭から歩いて一日もかからない大山の麓にはスセリ姫が暮らしています。
(唐王という場所ですが、スセリ姫の項で紹介しています)
もしスセリ姫とコトシロヌシが結託して反高天原勢力に呼びかけていれば、いまマスコミを騒がせているウクライナのような状況になったでしょう。
ですから高天原は、出雲勢力が団結して反撃に出ることを最も恐れていたはずです。
それを阻止するために、「出雲を明け渡したのはコトシロヌシであって大国主ではない」ことを強調し、不満を持つ出雲部族とコトシロヌシの間にくさびを打ち込んだと考えられるのです。
波波伎神社の伝承による「コトシロヌシに対する高天原の扱い方」ですが、大国主の息子というだけにしては神経を使い過ぎです。
そうしなければならなかった理由は、母親の血筋だったのではないでしょうか。
古事記は、カムヤタテ姫などという氏素性の分からない女性の名を記していますが、私はアマテラスとスサノヲの娘であるタギリ姫だと考えています。
つまりコトシロヌシは、アジスキタカヒコネとシタテル姫の弟で、高天原の象徴アマテラスの孫ということです。
しかも出雲族の血も受け継いでいるのですから、危険な存在でもあった訳です。
その事実を知る高天原内部には、悪者に仕立てたままの処遇に批判があったのではないでしょうか。
批判に対応するため、亡くなってから大和に祀ったと考えれば納得出来ます。
でも、ただ祀るだけでは名誉回復はできません。
そこで権威を付けるために託宣の神として宮廷内にも祀れば、アマテラスの血筋は損なわれず、批判勢力をなだめることができたのではないでしょうか。
色々書きましたが、人間コトシロヌシとしてひと言で表しますと『悲運の王子』です。
―コトシロヌシ編 完―
連載はまだまだ・・・つづく