古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【28】

―「神話部分」を読む ― 伊邪那伎命と伊邪那美命 ⑧

七番目が、『佐度(さどの)島を生みき』です。
これは文字通り現在の佐渡ですが、宣長は「佐度=狭門(さど)で、船が島へ入る水門が狭かったことからこの名が付いた」としています。
この島にだけ別称がありませんが、これについて宣長は「大昔に忘れ去られたのではないか、古事記以後の書物に色々書かれてはいるが・・・」としています。

八番目が『大倭豊秋津島(おほやまととよあきづしま)を生みき。亦の名を天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきづねわけ)』で、宣長は説明を省いています。
一般的には「大和(奈良地方)を中心とする畿内地域で、本州全体ではない」との解釈が主流になっています。
では中国地方や中部地方から東の地域は、どうなっていたのでしょうか?
中国地方に関する記述は、上巻で多くの字数を占めています。それにもかかわらずこの大倭豊秋津島に属さないとの解釈は、古事記が書かれた頃には「中国地方は、大和朝廷を構成する高天原族とは別の部族の支配圏域」と考える部族が多かったことに因るのではないでしょうか。
東側に関しては、最も東の地名はこの国産み場面の佐渡です。でも物語の展開はありません。
物語の中に登場する地名では「諏訪」ですが、ずっとあとで紹介します葦原中国(あしはらのなかつくに)の平定場面です。でもこの場面は中国地方の中に含まれていますから、「諏訪」も高天原部族の支配地域ではなかったのではないでしょうか。

以上一から八番目までが最初に生まれたグループということで、『大八島國(おほやしまぐに)と謂ふ』としています。

宣長は、島の生まれた順番について
「まずオノゴロ島で男女の営みをし、すぐ隣の淡島を生んだ。次にその隣の淡路島、西に向かって四国・九州、北上して壱岐・対馬、東に回って佐渡、南へ戻って大倭島を生むというのが筋だ。なのに筋を乱して隠岐が九州の前というのはおかしい。とは言え、色々調べても隠岐は佐渡の前にあるから納得するしかない」と書いています。

ここでの宣長の疑問は、「古事記編者の『日向國』の扱いが理解できなかった」ことと同じでしょう。九州は『天孫降臨』の地とされていますから、天皇家と縁が深い地域と受け止められています。宣長もそのように受け止めていたと思われますから、国産みの順位も上位で当然と考えたはずです。
宣長にすれば、「奈良に近い淡路島・四国は致し方ないが、その次は九州であるべきだ」ということでしょう。
宣長は「壱岐・対馬から東へ回って佐渡」と書いていますが、彼の言う筋で行くなら「東へ回って隠岐から佐渡」と書くべきです。そうは書かないで「色々調べても隠岐は佐渡の前にあるから納得するしかない」としているところに、私は「中国地方の事情を知っていながら、敢えて触れていない」と受け止めています。

このあと古事記は、『吉備兒島(きびのこじま)』=岡山県児島半島、『小豆島(あづきじま)』=小豆島、『大島』=山口県の大島?、『女島(ひめじま)』=大分県の姫島?、『知訶島(ちかのしま)』=長崎県の五島列島、『兩兒島(ふたごのしま)』=長崎県の男女群島、の六島が生まれたと書いています。これで国産みは終わりです。

・・・つづく

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