特集:「国譲り」とは何だったのか【其の一】

ここで国譲りの経緯を整理してみます。

まず、交渉により事を進めようとしていた高天原勢力は、交渉人としてアメノホヒを派遣します。
ところが彼は出雲に同化してしまい、後年、神魂(かもす)族の祖と位置づけられています。
彼は本国を裏切ったのですが、咎(とが)めを受けてはいません。

それどころかこの神魂族は「出雲国造家」となり、25代続きます。
その後、出雲大社家(現在は千家家で84代)が「出雲国造家」となるのですが、地元では「神魂の分家が引き継いだ」と表現しています。

日本書紀には、659年に出雲国造家が大社(おおやしろ)造営を命じられたと記されています。
この時点での出雲国造家とは神魂族のことを意味していると思われます。

その後の歴史としては、798年に出雲国造が杵築(きづき)大社に移住しています。これが分家が引き継いだということでしょう。

そして1343年に出雲国造家が千家家と北島家に分裂し、両家が交互に国造家の任に就いていますが、大正以後は千家家が国造家を務めています。

つまり松江の神魂神社と千家・北島両家はアメノホヒの末裔ということになります。


次にアメノワカヒコが交渉人として派遣されます。

彼も出雲に同化しますが、大国主とタギリ姫の娘であるシタテル姫の夫としてです。
しかもそれによって大国主の後継者になろうとの野心があったとされています。
その上、伝令である雉の鳴き女を殺した事に拠ってか、タカミムスヒ(高木の神)の手で殺されます。

アメノホヒは優遇され、アメノワカヒコは冷遇されたのです。

この差は、ワカヒコが仲間の血を流したということより、例え高天原の者が王になったとしても、出雲族による支配体制存続を是とするか否とするか、だったのではないでしょうか。

出雲族による支配体制とは、スサノヲが造りあげた体制です。

全国制覇を狙う高天原勢力としては、全ての既存秩序を廃し、自らが創り出した秩序に統一しようと考えていたと思われます。
ですから、たとえ部分的であっても旧体制を継続しようとする者は抹殺しなければならなかったのでしょう。


交渉決裂のあとは、実力行使あるのみです。

交渉に時間をかけたということは、双方に戦闘準備の時間が十分にあったことを意味します。
満を持して武闘派タケミカヅチが送り込まれたということは、高天原側は全面戦争の陣構えで乗り込んだと理解すべきでしょう。

古事記では、最終交渉の後に衝突があったことを窺わせる表現になっていますが、実際には出雲グループのいくつかの部族に対する離反工作が行われ、その後に互角の大激戦となったが、出雲側に離反者が出て終わったのではないかと考えています。

現にこの地方には大虐殺があったとの伝承がありますし、離反勢力に対する怨念の継承と思える感情論がありました。

勝者となった高天原勢力のその後の他地域での展開には、『出雲勢力とのあいだに流血は無く、国譲りは禅譲であった』との形が必要だったのではないでしょうか。

そのために、『血塗られた経緯を、分別に満ちた物語にしなければならなかった』。

そこに無理が生じ、辻褄の合わない部分が残ったのであろうと解釈しています。

「国譲り」とは何だったのか【其の二】へつづく・・・

【特集】「国譲り」とは何だったのか
https://www.kojinazo.net/?p=43
■「国譲り」とは何だったのか【其の一】
https://www.kojinazo.net/?page_id=1355

■「国譲り」とは何だったのか【其の二】
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■「国譲り」とは何だったのか【其の三】
https://www.kojinazo.net/?page_id=1359


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