古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【17】

―「神話部分」を読む ― 寄り道 ②

『古事記』は、「高天の原に神が現れた」と始めています。
これは、「高天の原」という自然界に神が現れたのであって、神が「高天の原」を造ったのではないという発想です。

ところがキリスト教徒の聖典である『聖書』の発想は、『古事記』の発想とは全く違います。

聖書は『旧約聖書』と『新約聖書』に分かれていますが、思いっきり簡単な表現をすれば、『旧約聖書』は「神とイスラエルの民(ユダヤ民族)との契約の書」、『新約聖書』は「キリストとイスラエル以外の民との契約の書」です。

『旧約聖書』には「神が自身の姿に似せてアダムを創り、その子孫からイスラエルの民の祖先が生まれた」と書かれています。

そして『新約聖書』には、キリストはイスラエルの民の祖先の子孫と紹介されています。ですからキリストはイスラエルの民のひとりですし、『新約聖書』は『旧約聖書』の続編のような形になります。

かなり乱暴な見方ではありますが、『古事記』の神話部分の始まりに該当するのが『旧約聖書』の「創世記」の始まりの「天地の創造」部分です。
そこには次のように書かれています。
(全文を紹介します。少し長くなりますので今回は途中まで。)

初めに、神は天地を創造された。
(神がどこにいるかには触れないで、神が天地を造ったと断言しています)

地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていた。
(『古事記』は空間と海に分けていますが、こちらは固まっていない大地と水の存在を表現しています)

神は言われた。
「光あれ」
こうして光があった。
神は光を見て、良しとされた。
神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
夕べがあり、朝があった。第一の日である。

(『古事記』は昼と夜は既にあるとの前提ですが、こちらは神が造ったとしています)

神は言われた。
「水の中に大空あれ。水と水を分けよ」
神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。
そのようになった。
神は大空を天と呼ばれた。
夕べがあり、朝があった。第二の日である。

(神が水の中に大空を造り、それを天として雨となる水を置き、下にある水と分けたとしています。空をつくる前の「水の面(おもて)」を神の霊が動いていたのですから、神の霊がある場所は空(=天)より更に上ということになります。つまり神は自然より上に存在するということです。『古事記』では「高天の原」という自然界に現れたのですから、神が自然より上に存在するとの発想ではありません)

神は言われた。
「天の下の水は一つ所に集まれ。乾いた所が現れよ」
そのようになった。
神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。

(「地」も「海」も神が造ったとしています。しかし古事記では「海」は既にあり、そこにイザナギ・イザナミが島を造っています)
神はこれを見て、良しとされた。
神は言われた。
「地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ」
そのようになった。
地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。
神はこれを見て、良しとされた。

(草・木=植物も神が造っています。古事記では草・木=植物を誰が造ったかに触れておらず、既にあるものという発想です)
夕べがあり、朝があった。第三の日である。

・・・つづく

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