後世に正しい歴史を伝えようと言い出したのは天武天皇ですが、それがいつかは分かりません。
天武天皇の在位は673~686年の13年間ですから、そのどこかです。
分からないのですから、真ん中をとって680年頃としておきましょう。
天皇の命令が出たのですから、稗田阿礼は情報収集作業に取りかかったはずです。
ところが天武天皇が亡くなり、后が持統天皇(在位686~697年の11年)となります。
「夫が亡くなり、妻が跡を継いだ」と見れば単純なのですが、実は複雑な絡みがあります。
持統は天武の兄である天智の娘で、二人の間の息子が草壁皇子です。
ところが天武は、持統の姉の大田皇女をも妻とし、大津皇子が生まれます。
つまり天武は兄の娘二人を妻とし、それぞれに男子が生まれたということです。
現代の我々から見れば、兄貴の娘を妻にするなど考えられません。
それがご丁寧に、姉妹二人となると異常です。
しかし正当な血統を残そうと考える当時の権力者にとっては、当然のことだったのでしょう。
【天智~聖武天皇系図】
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天武は当然のことをしたのでしょうが、同様に当然のこととして、母親は自分の子供に権力を委譲したいと考えます。
これから先を理解するには、天武が如何にして天皇になったかを知っておく必要があります。
そこでその経緯を簡単に述べましょう。
天武は40代天皇ですが、兄の天智は38代天皇です。
つまり天智と天武の間に、もう一人天皇がいました。
それが39代弘文(こうぶん)天皇です。
この弘文天皇は天智の息子で、即位前は大友皇子と名乗っていました。
自然の流れで行けば、父・天智38代→息子・弘文39代→孫○○40代となるはずです。
ところがこの40代が、天武天皇です。
天智天皇に孫はいなかったのでしょうか?
いなかったのではなく、いないようにされたのです。
そうしたのが『壬申の乱』です。
【天智~聖武天皇系図】
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『壬申の乱』を極端に簡単に言ってしまえば、「親百済」の天智系と「国粋派」の天武系の戦いです。
天智は即位後、後継は弟の天武を考えていたようです。
だからこそ二人の娘を天武に嫁がせたと考えられますが、いつしか息子の大友皇子を後継にと考えるようになったようです。
親百済派が画策したのでしょう。
これを察知した天武は、身の危険を感じたと思われます。
そこで、後継の意志がないことを示すべく出家します。
親百済派としても、出家した天武を追訴することはできなかったようです。
671年、天智天皇が亡くなり大友皇子が弘文天皇となりますが、翌672年、天武は国粋派をまとめ上げ百済派を倒します。
後ろ盾を失った弘文天皇は、わずか25歳で自害します。
以上が『壬申の乱』の骨組みです。
取り巻きの事情があるとはいえ、天武は甥を倒して皇位を得たのです。
つまり覇者です。
覇者は、新たな覇者により葬られる宿命を持っていますが、新たな覇者が現れない場合は骨肉の争いへ発展します。
次回でそれを述べます。
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