古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【54】

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―「神話部分」を読む ― 三貴子の分治 ③

引き続き「古事記伝」から宣長の解釈を紹介していきます。

黄泉の国は、凶悪(まがこと)でイザナミが移り住み永くとどまった国だから、
世の中の凶悪の行き着くところであり、
同時に世の凶悪の生じるところである。

イザナミは火の神を生むまでは色々なものを生む善(よき)神だった。
しかし黄泉の国に住むことによって悪(あしき)神となった。
「一日に千人殺す」などは悪神になって、
禍津日(まがつびの)神誕生の元になったのである。

イザナギもその国に追いかけて行き、意図せず凶悪(けがれ)に触れたために、
世の中全体が凶悪(まがこと)になったのだ。

天照大御神の天石屋(あめのいはや)隠れまた後世の世の乱れなどは、全てこれによる。
イザナギは最初と最後は善神であるが、途中穢れや悪事に触れたことは
「世の中良いことばかりではなく、必ず悪いこともある」ということを示している。

だがイザナギは、すぐに現世に帰り御禊(みみそぎ)をした。
これが悪を善に戻す方法で、「悪を直して善を行うべき」という人の世の道理は、これによるのだ。

そのときにまず禍津日(まがつびの)神が現れたのは、黄泉の国の穢れを取り払ったからである。
禊は、凶(まがこと)から吉(よごと)に移る境であるから、
最初にこの神が現れたのである。
世の中の凶悪事は全て(黄泉の国の)穢れから生じている。
この神(=禍津日)の意思によるのだ。

その穢悪(まが)を祓い清め直してこの三柱の貴(うづ)の御子神が現れて、
だがこの三神の中でも、スサノヲが悪神(あしきかみ)として悪事を重ねたのは、あのイザナギが始めと終わりは善神(よきかみ)であったが途中では悪に触れたという摂理による。

最終的に天照大御神が高天原を管理するようになって全てが元の吉善(よごと)に戻ったのは、これこそが世のあるべき姿という摂理なのである。
アマテラスでさえスサノヲの狼藉に耐えることができず身を隠したのは、
世の中とは大混乱に見舞われるものだということを示しており、
その原因は黄泉の国の穢れによる。
しかしアマテラスの光が永遠に遮られることは無い。
いずれ吉善(よごと)に戻り、(アマテラスの)光に照らされ、
皇孫(アマテラスの子孫)がこの世界を支配し、
皇統(あまつひつぎ)(天皇家による支配)は永遠に変わることは無い。

宣長は、「天皇家が世の頂点に立つのが、世界が出来た時からの摂理」だと確信しているようです。

ということであるから、以上の流れをよく理解し、
イザナミ・イザナギが神々を生んだ吉善(よごと)により、
イザナミが亡くなるという凶悪(まがこと)が生じた。
何事も凶悪は吉善から生じるのである。

世の中とは吉凶が交互にくると知るべきである。
人の生死、一日の昼夜、一年に春秋があるのも、この摂理であって、
世の中には吉善事(よごと)だけではなく凶悪事(まがこと)も無くてはならないという摂理である。

また、凶があっても最終的には吉に勝ることは無いとの摂理をも、理解すべきである。
イザナミが一日に千人殺したのに対し、
イザナギが千五百人生ませたのがこれである。
スサノヲが荒れたのでアマテラスが隠れたが、再び現れて世の中を照らし、
スサノヲが追放されたのもこの摂理である。

また人は心から凶悪(まがこと)を追い出して、吉善(よごと)を行うという摂理をも理解すべきなのである。
イザナギが黄泉の国の穢れを嫌ってのお祓いやスサノヲの追放が、これである。
人間が凶を直して吉に戻そうとする行為はイザナギの御禊(みみそぎ)の摂理によるのだが、イザナギはこの禊で、人間に「凶を嫌って吉を成せ」と教えたのではない。
その理由は、(イザナギは)神から教えられてしたのではないからである。

そもそも産巣日(むすび)の神の御霊により(イザナギの心にあった)「黄泉の穢れを汚いと思う気持ち」がそうさせたのである。
人間も同様に「凶を嫌い吉をすべき」心を持って生まれているのだから、教えられなくてもそうするものである。

とはいえ人のすることには、吉のみならず凶もあって当然である。
イザナギも黄泉に行って穢れに触れたし、
三柱の貴(うず)の御子の中に(凶である)スサノヲがいることも、
この摂理によるのである。

・・・つづく

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