古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【48】

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―「神話部分」を読む ― 禊祓と神々の化生 ⑤

イザナギは、「禊」をするために、身に着けていたものをすべて脱ぎ捨てました。
つまり素っ裸の状態で水に入るわけです。
この場面でも多くの神が現れます。
文脈を要約しますと『濁』を『清』にするということですが、それは『物』に関することであって『心・精神』ではありません。

ここに「上(かみ)つ瀬は瀬速(せばや)し。下(しも)つ瀬は瀬弱し」
と詔(の)りごちたまひて、
初めて、中つ瀬に堕(お)り潜(かづ)きて滌(すす)ぎたまふ時、
成りませる神の名は、
(1)八十禍津日(やそまがつびの)神。次に
(2)大禍津日(おほまがつびの)神。
この二神(ふたはしら)は、
その穢繁國(きたなきしきぐに)に到りましし時の汚垢(けがれ)によりて成りませる神なり。

そこで(イザナギ)は「上の瀬は流れが速い。下の瀬は流れが遅い」
と言い、
中流の瀬に頭から潜って身を清めた。
その時はじめに現れた神の名は、
ヤソマガツビの神、次いで
オオマガツビの神である。
この二神は、
あの汚らわしい黄泉の国に行ったときに身に付いた穢れによって現れた神である。

この現場は、橘の小門(おど)つまり川から海か湖への流入口です。
ですから「上つ瀬・下つ瀬」は、その辺りの流れの状況を表していますが、
イザナギが潜ったのは「中つ瀬」です。

その時の潜り方ですが、堕(お)り潜(かづ)きての表現により、
身体から入るのではなく、海女が潜るように頭から突っ込んでいったのだそうです。
なぜ「中つ瀬」なのかを、宣長は説明しています。

「瀬速(せばやし)」とは流れのはやいことを意味するが、
「弱(よわき)」に対応させているのであるから、
「はげしい」意味を兼ねている。

「瀬弱(せよわし)」とは、流れの緩(のどやか)であることを意味する。
流れが速過ぎても遅過ぎても禊には適さないから、「中つ瀬」で行ったのであろう。

何事においても中間を「中(なか)」と称するのは、この場面の「中つ瀬」が語源で、「ナカ」という発音は、
いま禊をして「清明(あか)く
(=清らかに)なった瀬」の「アカ」から来ている。
「中」には「清らかな位置」という意味があるようです。

八十禍津日(やそまがつびの)神
大禍津日(おほまがつびの)神

「八十」は(沢山という意味ですから)、禍(まが)の多いことを意味し、
「大(おほ)」は甚(はなは)だしいことを意味するのであろう。

世の中のあらゆる凶悪事(あしきこと)邪曲事(よこさまなること)などは、
全て禍津日(まがつび)の神の魂により生じているのだが、
この神は夜見の国の穢れから現れたのである。

宣長は、ここでは死者の国を、黄泉ではなく夜見と表現しています。

・・・つづく

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