古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【37】

―「神話部分」を読む ― 黄泉の国 ②

本文に戻りましょう。
死んだ妻に会うため黄泉の国へ来たイザナギが、イザナミに語りかける場面です。

「愛(うつく)しき我(あ)が汝(みまし)妹(いも)の命、
吾(あれ)と汝(いまし)と作れる国、未(いま)だ作り竟(お)へず。
故可環(かへりまさね)」とのりたまひき。

「いとしく常にそばにいて欲しい私の妻よ、
二人で作った国はまだ作り終えてはいない。
現世に帰っておいで」と云った。

大半の解説書では、「汝妹」を「なにも」と読み、意味を「わが妻」としています。
しかし宣長は、ここの「汝」は特別で「みましと読み、強い思慕の情をあらわしている」と、様々な事例を上げて説明しています。
ですから私は「みまし」と振り仮名を付け、「常にそばにいて欲しい」との思慕の情を入れた表現にしました。

ここに伊邪那美の命答白(まをしたまはく)、
「悔(くや)しきかも、速(と)く来ずて。
吾(あれ)は黄泉(よもつ)戸喫(へぐひ)しつ。
然(しか)れども愛(うつく)しき我(あ)が汝夫(なせ)の命、入り来ませる事、
恐故(かしこければ)、欲還(かへりなむ)、
且(つばらかに)黄泉(よもつ)神と相論(あげつら)はむ。
我(あ)をな視(み)たまひそ」とまをしき。

するとイザナミは
「残念、早く来てくださればよかったのに。
私は黄泉の国で調理した物を食べてしまいました。
でもいとしい貴方がおいでになったのですから帰りたい。
さっそく黄泉の国の神と相談してみますから、
(待っている間)絶対に私を見ないでね」と答えた。

これも男女の会話として読めばそれだけのことです。
ところが宣長は、非常に重要な場面だとしています。
それは「黄泉戸喫」(よもつへぐひ)の「戸」の部分です。
「戸」=「炉」で、「火」を意味しているそうです。
彼の説では、「火」と「水」は自然界から与えられたものだが「穢れた」ものとそうでないものがあるのだそうです。
黄泉の世界の「火」と「水」は穢れており、それで調理された料理は「穢れた食べ物」なのだそうです。
ですからそれを食べた者は「穢れた者」となります。
彼は「多くの人が火と水に関して穢れを意識していない点が問題である」としています。

大半の解説書がこの部分を「黄泉の国の食べ物を食べた」としていますが、宣長説を尊重して「調理した物を食べた」としました。

・・・つづく

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