古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【27】

―「神話部分」を読む ― 伊邪那伎命と伊邪那美命 ⑦

四番目が『筑紫(つくしの)島』ですから「九州」です。

原文は、『この島もまた、身一つにして面(おも)四つあり。面(おも)毎に名あり。筑紫(つくしの)國は白比別(しらひわけ)と謂ひ、豊(とよ)國は豊日別(とよひわけ)と謂ひ、肥(ひの)國は建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよくじひねわけ)と謂ひ、熊曾(くまその)國は建日別(たけひわけ)と謂ふ』です。

四つの面(おも)とは、
1:筑紫(筑前・筑後)=北部九州、
2:豊國(豊前・豊後)=東部九州(大分県)、
3:肥國(肥前・肥後)=長崎・佐賀・熊本の西部九州、
4:熊曾=熊本県南部~鹿児島県、を指しています。

なぜか日向國=宮崎県はありません。
これに関して古事記伝で別称の理由を調べますと、面白い部分があります。
宣長は、筑紫の『白比別』は「分からない」、豊國の『豊日別』は「国の名の通りだ」、熊曾國の『建日別』は「猛々しいという意味だ」としていますが、肥國の『建日向日豊久士比泥別』は「日本書紀の景行天皇17年3月の記述によるべき」としているのです。
日本書紀には“(景行天皇が)子湯県(こゆのあがた)(宮崎県児湯郡)で東方を見て「この国はまっすぐに日の出る方向に向いている」と仰ったのでその国を日向(ひむか)という ”と書かれています。
ですから宣長は「『建日向日豊久士比泥別』は日向國の存在を示しているが、古事記が書かれた頃にはまだ肥國と熊曾のエリアに属しており、独立した地域になってはいなかった」と、説明をしています。

この宣長の発想ですが、現地に足を運ぶのではなく、読書だけによるものだったのではないでしょうか。実際に九州の地形を体感していれば、「子湯県」が凶暴な狩猟族である熊曾族にふさわしくない地形であることが分かったはずです。
私は、「日向國、つまり日向族の地はあった。だが古事記の編者は敢えてそれを書かなかった」と考えています。理由は、「日向族=高天原族」だったからではないかと考えるからです。

五番目が『伊伎(いきの)島を生みき。亦の名は天比登都柱(あめひとつばしら)』で、壱岐です。
『天比登都柱』とは、孤島を意味するそうです。

六番目が、『津島を生みき。亦の名を天之狭手依比賣(あめのさでよりひめ)』で、対馬です。
宣長は、「韓国への往来船が停泊した港=津だからそのような名になった」としています。
また「魏志という中国の書物が、この島を對馬國(ついまこく)としている。それにより昔からそのように書いたように思えるが、それは違う。その書物が書かれたのは晋の時代で、その頃の我が国にそのような字の使い方はなく、ただの『津島=ツシマ』だった。あちらの国で聞き間違えて『對馬=ツイマ』と書いたのだ」とも書いています。

邪馬台国が日本にあった根拠の中で『對馬國=津島=対馬』が常識のように扱われていますが、宣長は否定しています。宣長の説が正しければ『對馬國』はどこか余所の地域ということになりますから、邪馬台国が日本のどこかにあるとする説も怪しくなります。
どこかで書くつもりですが、私は、邪馬台国は日本にはなく朝鮮半島のどこかだったと考えています。
『天之狭手依比賣』の意味は宣長も「分からない」と書いています。

・・・つづく

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