古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【24】

―「神話部分」を読む ― 伊邪那伎命と伊邪那美命 ④

未熟な二人が未熟な儀式をしてもうまく行きません。
そこで二人は、自分達に国生みを命じた指導者(天つ神)に相談しに行くことにします。行き先は指導者のいる高天原ですから『参上(まいのぼ)りて』と書かれています。

でも、誰に相談したかは書かれていません。
まさにこの部分が、古事記編者達(=日本民族の祖先)の知恵です。

江戸時代の研究者の間でも「誰に相談したのだ?」と問題になっていたようで、本居宣長は「最初に現れた五柱の神達」だと書いています。
相談を受けた神の名をはっきりさせないことで“あとでどのようにでも解釈できる”ようにしておいた訳ですが、“当時の状況”がこのような書き方をさせたと考えられます。
“当時の状況”とは、“アマテラス(=高天原族)の子孫である天皇族が西日本一帯を統括する立場にはなっていたが、まだ全ての部族が完全に服従している訳ではなかった”と推測しています。

その上で『太占(ふとまに)に卜相(うらな)ひて、詔(の)りたまひしく』つまり「占いにより答えた」と書かれています。

この部分を何気なく読めば「古代は、何事も占いで決めたのだ」となります。
でも相談した相手は、すべての部族の祖神であり全知全能を備えた天上界の指導者のはずです。
そのような立場の者が即答しないで占いの結果に従ったと明記することで、“最も権威のある結論=絶対的な真理”としたのです。

その結論とは『女(おみな)先に言へるによりて良からず。また還り降りて改め言へ』、つまり「女の方が先に声をかけたことが間違いだ。戻って正しい順番で言え」です。
ここで、少なくとも“性的欲求”に関しては、“男性主導”を絶対的なものと印象づけています。

これを“男尊女卑発想の始まり”とする見方がありますが、それは違います。
イザナギとイザナミの性行為は国土を創るというとても神聖なものですから、単なる性的欲求によるものではないと事前予告がしてあるのです。
それが『久美度(くみど)に興(おこ)して生める』という表現です。
本居宣長は「久美度とは、夫婦(めお)隠(こも)り寝(す)る處(ところ)を云(いう)」
「久美度は、子供を生むための性行為以外には使われない言葉」と説明しています。
“寝る”は“結ばれる”ですが、その前に“目合(まぐわ)う”という関係があります。
“目合う”は、目と目が合って男女が惹かれ合う状態で“性交”を意味します。
でもそれは単なる欲求による行為であって、子供を生むための“性交”とは限らないのです。

古事記が書かれた時代、支配階級では子孫を残すための性行為と欲望による性行為が区別されており、最初の子孫を残す行為には手順と体位があったようです。
手順とは、天と地をつなぐ意味の柱を中心に男女が逆回りし、出会ったところで男が女に声をかけて寝床に誘うといった形式だったようです。
体位とは、自然界では男が天で女が地、建物では男が屋根で女が床、天と地・屋根と床をつなぐのが柱、男女の間での柱が男根、という考え方だったようです。
二人目からがどうだったのかは分かりませんし、子孫云々などと考える必要のない一般民衆が手順や体位などを意識していたとは思えません。

・・・つづく

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