古事記おじさんの『21世紀の視点で古事記を読む』【20】

―「神話部分」を読む ― 寄り道 ⑤

前回述べましたように、『古事記』の冒頭部分は、「当時の現状を前提に、編纂目的に合致するように創作された」ものと考えられます。

他方『聖書』は、時の権力者が意図を持って編纂させたものではありません。
古代アラビア半島北西部地方で繰り返された「部族間の生き残りをかけた戦い」の中で発生した「救世主」信仰が、長い年月をかけて修正加筆されて形作られたもののようです。ですから明確に「誰それが作った」というものではありません。

長い時間と多くの人の手を経たことで、結果として「関係した部族の発想の全て」に対応できる内容になったようですが、最も重要なスタート部分「全ての始まり=天地創造」は「当時の人間の五感で捕らえることができる全て」の要求を満たしていなければなりません。そのために考え出されたのが「自然も人間も越えた存在としての神」だったのでしょう。

ですから「初めに、神は天地を創造された」とし、その状況を「地は混沌であって、闇が深淵の面(おもて)にあり、神の霊が水の面(おもて)を動いていた」と説明するしかなかったのでしょう。

「地は混沌であって」「闇が深淵の面にあり」「神の霊が水の面を動いていた」とは具体的にどのような状態でしょうか。

私の乏しい想像力では、「真っ暗闇に覆われた、ドロドロの底なし沼」状態となります。
沼ですから、ドロ状の表面には水があります。
その水の表面すれすれのところを、神の霊が動いていたといった感じです。
これは水面近くを漂う「もや」のようなイメージです。
神はこの暗闇に「光」を持ち込み、昼と夜を創ります。
そのあとで、水の中に「大空=天」を持ち込み、水を「大空の上の水=雨水」と「下の水=海」に分けます。
その上で「下の水」を集めて「水の部分=海」と「乾いた部分=地」に分けます。
ここで「海」と「地」つまり自然の基礎ができ、その後自然界のあらゆるものと人間が創られますが、それら全てを創ったのは『神』です。
ですから『聖書』の発想では、全てが『神』の意志によってできたものです。

『古事記』と『聖書』の天地創造部分で、両書を信奉する民族の発想の違いが明確です。

『古事記』民族は、「自然」は人智の及ばない存在であり「畏怖」し「共生」する対象であり、民族の祖先である『神』が近づけるとの発想です。
他方『聖書』民族は、「自然」もっと大きく言えば「宇宙」までもが『神』の意志により創られたもので、全ての現象は『神』の意志によるとの発想です。

ですから人間の営みに関しては、『古事記』民族では「自己の意志」によるもので「自己責任」となります。これゆえに、間違いがないよう「過去の事例」や「周辺の人間関係」を重要視します。

ところが『聖書』民族では「神の意志」によるものですから、「自己責任」ではありません。『神』に懺悔をすれば許されますから、何回間違ってもいい訳です。ですから「過去の事例」や「人間関係」にこだわる必要は無く、新奇な発想が可能になります。

以上のようなことを述べたのは、「どちらが良いか」ではなく「根本の発想が異なる」ことを理解しておくべきだと考えると同時に、根本発想が異なっていても人間のすることには大きな違いがないということをご理解頂きたいと考えたからです。

それは、以前にも書きましたが、アダムとイブの子孫がイスラエルの民の祖先となる記述と、イザナギとイザナミの子孫が天皇族の祖先となる記述が、基本的には同じような手法をとっている点です。

イスラエルの民の場合は「聖書に書かれているように、我が部族は神から選ばれた民族である」との選民思想につながります。天皇族の場合は「古事記(日本書紀)に書かれているように、我が部族の祖先である高天原族が日本の正統な支配部族である」との皇国史観につながります。

・・・つづく

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