もしも古事記の神々が人間だったら・・・【33】

神武東遷 ≪その一≫

初代天皇神武(じんむ)から10代崇神(すじん)までの実在には疑問符が付いています。その理由は、考古学的な時代の流れと古事記・日本書紀の流れの計算が合わないからのようです。

私は、後に神武といわれた人物は存在したと考えています。古事記の記述によりますと、アマテラスを初代として数えると彼は6世代目の子孫です。
6世代と聞くだけでずいぶん大きな時代差があっただろうと感じますが、どの程度だったのかを考えてみました。

寿命の短い古代のことですから世代差を15年(現代は27年程度)としますと、アマテラスの時代より90年後ということになります。
これを今に置き換えますと、2014年と1924年(大正13年)の感覚です。
しかし女性は初潮が始まれば子供を産めますから、第1子との世代差は12~3年程度だったかもしれません。
その場合には7~80年後となりますから、ヒトラーが現れた第二次世界大戦が始まる前頃と今の感覚で、時間的にさして離れてはいません。

このような比較を述べたのは、古事記に書かれている「神話の時代」と「神武の時代」が、実はそんなに離れてはいなかっただろうということを理解して頂きたいからです。
当時の技術進歩は今のように早くはなかったでしょうから、生活様式もほとんど変わらなかったと思えます。
そのような状態の中でのとんでもなく大きな変化が、「天つ神」と称する高天原族の武力による他部族制圧だったのではないでしょうか。

古事記は、神武が高千穂宮(たかちほのみや)で「全国を治めるにはどこに都を置けばいいだろうか」と考えたとしています。
この高千穂宮は宮崎県のどこかだったようですが、宮崎神宮の由緒には高千穂宮=宮崎神宮だと書かれています。
細かい場所は兎も角として、神武が宮崎県内(=日向地方)で行動開始を決意したことは間違いないようです。

・・・つづく

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