もしも古事記の神々が人間だったら・・・【25】

コトシロヌシ ≪中≫

前回述べた流れから考えますと、国譲りの時にコトシロヌシが託宣の立場であったとするのは後の時代の人の考えであって、事実とは異なっている可能性があります。

「ことしろ」=「言知る」の前提も、「音」を漢字に当てはめての連想です。
国譲りの頃は文字はありません。
口から発する「音」だけです。
意味を持つ文字を当てはめたのは、やはり後の時代の人です。
つまりこれも、歴史の結果を知る者の創作と考えることもできるのです。

私は、書かれている内容を文字の意味など考えないで素直に読むことにしています。
古事記の『序』に、「音」に最も近い発音をする「文字」を使ったとの説明があるからです。

そのような姿勢で読むと、「大国主は国を明け渡す腹が決まらず、息子達の判断に任せた」と解釈すべきです。
コトシロヌシは、父親からとんでもない判断をさせられた訳です。
彼は「これは絶対に勝てない」と思ったのでしょう。
「差し上げます」と言うと、即座に乗ってきた『船を踏み傾けて、天の逆手を青柴垣(あおふしがき)に打ち成して隠りき』と書かれています。

実は『 』の部分がどういうことか分かりません。
分からない理由は「文字」を見て考えるからだと気付き、文脈だけで考えました。

その場面のコトシロヌシは、≪どうにもならないので、降参などしたくない気持ちを押し殺して敵の求める答えを言う状況≫に追い込まれているのです。

一番引っかかるのが『天の逆手』(通常「さかて」と振り仮名が付けてありますが、コトシロヌシの総本山的神社の美保神社では「むかえで」と読みます)です。
一般的解釈は「特殊な柏手」で、どういうものかの統一された見解はありません。
美保神社では普通の「柏手(かしわで)」で、仲直りの「手締め」の始まりだとしています。

私がたどりついた解釈は、これらとは全く違います。
お断りしておきますが、学問・宗教とは関係ない小説家としての解釈です。

『天の逆手』ですが、『天』=人間が抗うことのできない自然の力=神です。
ここでは、出雲地方の神=地の神です。
『逆手』=順調な状態の逆=ダメな状態
つまり『天の逆手』=『出雲地方の地の神の力が無くなってしまった状態』です。
分かり易い表現にすれば「力を失った神」です。

続きの『青柴垣に打ち成して隠りき』は、『青柴垣のようにして、その中に隠れた』です。
全部をつなぐと『力を失った我が地の神を(捨てるのではなく)青柴垣のようにして、その中に隠れた』です。
「隠れた」のですから「死んだ」のではありません。
またコトシロヌシの周りをぐるりと巡り隠しているのは「今は力を失った、地の神」です。
柴垣は、枯れたと見えても、手入れ次第で弾力のある緻密な垣根=バリアになります。
つまりコトシロヌシは、いずれ地の神と一緒に再起することを胸に秘めて出雲の地を去ったのです。船を踏み傾けたのは憤怒を押さえる意思表示です。

・・・つづく

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