「古事記」は『独立宣言』だった!?【9】

大海人皇子は天武天皇となり、親『新羅』姿勢を明確にします。
天武の次には息子ではなく皇后が、持統天皇(在位690年~697年)として即位します。
彼女も天武天皇の外交方針を引き継ぎ、親『新羅』政策をとりました。

しかしそれは対等ではなく、『新羅』が日本へ朝貢するという「日本上位」の関係でした。
彼女は、夫が強く求めた「独立国家」を意識していたと思われます。

当時の日本の国際社会での実力がどの程度であったかは分かりません。
しかし彼女は、『唐』と『新羅』の関係つまり国際情勢を知っており、それを交渉に使ったのです。

これこそが、発展途上国が国際社会にデビューする気概です。
結局、『新羅』はその条件をのんで日本への朝貢関係をとったのです。

持統天皇は、優れた知識や技術の普及のために『新羅人』を活用します。
彼らを、日本の中での後進地である中部から東日本に分散居住させているのです。

明治政府は、欧米列強から『独立国』として認められようと西欧化を急ぎました。
そのひとつとして、先進知識を普及させようと外国人教師を全国に派遣しました。
古事記編纂の時代にも、同様のことが行われていたのです。

天武天皇が目指した、国際社会で認められる『独立国』への覇気が、1300年を経たいま問われているような気がしてなりません。

———「古事記」は『独立宣言』だった!? (完)

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