大神山神社の秘伝【6】

三代将軍家光の時代には、徳川家の覇権は盤石となり、家康は日光東照宮に「神」として鎮座します。とは言っても、将軍職の任命権者である天皇が最高権威者で、これまた「神」の子孫ということになっています。

徳川幕府は、京都にある天皇家を権威の象徴として遇してはいましたが、政治権力の中心は関東に移っており、天皇家の扱いは形骸化していきます。京都の権威集団は怒り心頭に達していたと思われますが、為す術はありませんでした。

家康を「神」とする徳川権力は、「神」の子孫であることを権威の拠り所とする天皇家を「如何ほどの者か」と考えていたのではないでしょうか。

ですから天皇一族による抹消の対象であったアジスキタカヒコネの血統=相見家を厚遇したのではないでしょうか。

ところが、1700年代後半、京都に医学を学びに行った本居宣長が古事記を入手し、35年をかけて古事記伝を著します。

そして1800年代初めに、平田篤胤が宣長に触発されて、当時の神仏習合神道への批判を展開します。(彼の考え方は尊皇論へ引き継がれ、明治維新の思想的背景となり、神仏分離や廃仏毀釈へとつながっていきました。)

更に1837年、大阪で幕府高級官僚の大塩平八郎が武力蜂起します。いわゆる大塩平八郎の乱です。徳川幕藩体制の制度疲労が具体化し始めたのです。

宣長から大塩平八郎の乱に至る過程に、京都の朝廷が関わっていることを示すものは全くありません。

しかし私は、古事記伝も平田篤胤出現も更には大塩の乱も、偶然ではないと考えています。

権威をないがしろにされ続けた京都勢力が、200年に及ぶ忍従の時を経て動き出していたのではないでしょうか。

…つづく

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